音大ピアノ科卒で、ピアノ教室を経営していた母。
その母親に、『音楽は食べて行くのが大変だから、
趣味にしておきなさい』と常々言われて育ちました。
それをしてきた人が言うのだから間違いないと、
音楽は趣味として楽しんできた私(代表 平田)が、
なぜボーカル教室を始めようと思ったのかをお伝えします。
まさか自分が音楽を仕事に出来るなんて思っていなかった!
音大卒の母に学んだこと
激戦区で勝ち残ったボーカル教室!
夢を肴<サカナ>に飲んでいた街、下北沢
2003年9月 創業当時は下北沢にはボーカル教室が5校もあり、
後発の自分たちは無謀な挑戦のように思いました。
しかし、スタッフと力を合わせ、翌年4月には100名を越える教室に。
それ以来、15年間下北沢の街に支えられてきました。
本当にありがとうございました。
東北大震災が転機に
『こんな時だからこそ、歌でも歌って気分転換したいんじゃないですか?』
いつ再開できるか分からなかった東北大震災の後、
スタッフから上がった信じられない意見。
意外にも、同じ思いを持つ生徒さんも大勢いて、
【音楽の力】を再認識しました。
最初の10年はボロボロでした。
実は、最初の10年はボロボロでした。
インストラクターを育てては辞め、育てては辞めの繰り返しでした。
辞めるだけなら良いのですが、
当校の生徒を連れて行き、
自分の教室を立ち上げるケースも相次ぎました。
残念ながら、当校在籍中はとてもよく頑張って、
生徒集めに貢献してくれたスタッフほど、
自分の教室を持ちたがったのです。
代表 平田啓 プロフィール
一人ひとりに音楽のある豊かな人生を届けられるように
生まれは京都府伏見区観月橋です。今もある日赤病院で生まれました。でも、1歳半で大阪府高槻市に引っ越したので、 ほぼ生粋の浪速っ子です。 実家の1階は、音大ピアノ科卒の母が営むピアノ教室という環境で育ちました。
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